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アメイジング・グレイス

  アメイジング・グレイス
 
 僕は幼い頃から、母親に聖書を読まされていた。ジョン・ニュートン。それが僕の名前である。

 母親は敬虔なクリスチャンだったが、僕が七歳の時に亡くなった。その後、成長した僕は、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなった。様々な船を渡り歩くうちに二十二歳で黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に携わり富を得るようになった。

「どうして、この様な事になってしまったのか。僕の人生は、こんな商売をする為に生まれて来たのだろうか……」

 お母さんが、亡くなってさえなければこんな事にならずに済んだのであろうか。

 奴隷を売り買いする市場で奴隷商人が、僕に話しかけて来た。

「ジョン、今日も盛況だな。まあ、奴隷船が一番儲かるビジネスだからね。黒人を運ぶなんて、酔狂なことだがね」

 その頃、黒人は家畜以下の扱いを受けていた。輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡するのが常であった。

 僕は、市場の商人に自分の苦労を語る。

「これしか儲かる仕事が、他に無いんだ。仕方ないだろう。でもね、奴隷を売り買いする事は仕方がないことだとしても、その奴隷を差別する事はいけないことの様な気がして来たんだ」

 その商人は不思議そうな顔をして言った。「はん、お前は変わっているな。そんなことじゃ長続きしないぞ。この商売、奴隷に情を入れたら終わりだからな」

 その通りだ……僕はこの仕事に向いていないのだろうか。それでも、奴隷に情は入れても話しかける程ではなかった。仕事として割り切っていたのだろう。僕は次の航海に先立ち、必要な物資などを買い込み、僕は数十人の奴隷を船に乗り込ませて航海に出た。

 今回は蜂蜜を船に大量に積ませていた。イングランドでは蜂蜜が高く買われていたからだ。船の搭載量はギリギリだった。

「あの、敬虔なクリスチャンだったお母さんが、今の僕の姿を見たら悲しむだろうな」

 僕は、奴隷たちに食料と蜂蜜を渡す。他の商人と違うことがあるとすれば、この様なことだったかも知れない。奴隷として買われるまでに、美味しいご飯を食べさせてあげたかったのだ。

 順調に思われた航海はやがて、異変に遭う。

「嵐だ……」

 嵐がこちらに向かっている。

 そして、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのである。

「駄目だ、もう助からない」

 今にも海に呑まれそうな船の中で、僕は必死に神に祈った。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、僕が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだった。

「神様、助けてください……今まで僕は本当に愚かな行いをして来ました。こんな僕は死んで当たり前です。今までお見守りくださり、ありがとうございました。でも、どうか、この奴隷たちの命だけは助けてあげてください」

 すると流出していた貨物が船倉の穴を塞いで浸水が弱まり、船は運よく難を逃れたのだ。

 ……。

 奴隷たちが喜んでいる。こんな境遇に立たされても、やはり命は大事なのか。

 僕は、心の底から驚いた。神は本当に愚かな事をして来た、こんな僕をも助けてくれたと言うのでしょうか……。

「ああ、神様……僕はこのことを悔い改めます。今まで本当に申し訳ありませんでした。これからは、正しい行いをしていきます。これからは、僕のことをどうかお見守りください」

 僕は丘に上がり、奴隷たちを解放し、これからのことを考えていた。奴隷の商売はすぐに辞めることはできなかったけれど、これからは奴隷たちに対して不当な扱いは辞めよう。これからは神を信じて歩いていくのだ。

 この後、僕はこの日を精神的転機とし、それ以降、酒や賭け事、不謹慎な行いを控え、聖書や宗教的書物を読むようになった。また、僕は奴隷に対しそれまでになかった同情を感じるようにもなったが、その後の六年間も依然として奴隷貿易に従事し続けた。のちに、真の改悛を迎えるにはさらに多くの時間と出来事が必要だった。

 晩年、僕は牧師になった。

 僕は病気を理由に船を降り、勉学と多額の献金を重ねて牧師となった。そして1772年、「アメイジング・グレイス」を作詞した。歌詞中では、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝を歌っている。

「アメイジング・グレイス」
 驚くべき恵み(なんと甘美な響きよ)
私のように悲惨な者を救って下さった。
かつては迷ったが、今は見つけられ、
かつては盲目であったが、今は見える。
神の恵みが私の心に恐れることを教えた。
そしてこれらの恵みが恐れから私を解放した
どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、
私が最初に信じた時に。
多くの危険、苦しみと誘惑を乗り越え、
私はすでにたどり着いた。
この恵みがここまで私を無事に導いた。
だから、恵みが私を家に導くだろう。
そこに着いて一万年経った時、
太陽のように輝きながら
日の限り神への讃美を歌う。
初めて歌った時と同じように。fin